「自己肯定感」という言葉は日常でも非常によく使われるようになりました。一方で、その言葉に学術的な定義があるのかといわれると、微妙なところです。ただ、世の中には自己肯定感の尺度はたくさんあります。その色々ある尺度の中で、共通して測られている概念は「自己受容」です。

自己肯定感とは、極端に言ってしまえば自己受容感なのかもしれません。

私は、自己肯定感を自分の言葉で説明するときにロジャースのカウンセリング理論を使います。ロジャースは、来談者中心療法を提唱し、建設的な人格変容のための6条件を述べています。

誤解を恐れずに極端に言うと、「カウンセリングを通して前向きになるには六つの条件があるよ」ということです。その中の三つがカウンセラーに求められている条件です。これをカウンセラーの基本態度などと言われます。

この三つとは「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「自己一致」です。

今回、「自己愛」と「自己肯定感」を説明するのに用いるのは「無条件の肯定的配慮」の概念です。

これのポイントは「無条件」ということです。無条件の肯定を考えるときは、まず条件付きの肯定を考えてみるとわかりやすいです。条件付きとは「~ならば」「~である限り」という意味です。日常的に我々が行っているほとんどの肯定は条件付きです。

例えば、相手が自分に対して攻撃性を向けてこなければ「仲良くできる」。
彼が私のことだけを好きならば彼のことが「好き」。

物事を肯定的に見るにはほとんど条件が付いているのです。カウンセラーは無条件に肯定的に物事を見る必要があるということです。

クライアントが犯罪者だろうが、こちらに攻撃性を向けてこようが、です。
もちろん、法治国家の中にいますので、法律に許される範囲でということになります。この「無条件」はカウンセリングルームの中で「クライアント」と「カウンセラー」という関係でないとできません。ほかの場所やほかの関係性ではできません。だからこそ、「カウンセリング」という枠が必要になるのです。(*注 ロジャースは無条件の肯定的配慮は特殊な状態でなく、日常でも行うことができると述べているようです。ここに関しては私の考えになります。ご注意ください。)

さて、自己肯定感についてですが、これは自分自身に対して無条件の肯定的配慮ができる力だと思っています。
さて、ツイッターに書いた

「俺こんだけ金持ってるよ!まじですげーだろ!彼女も片手じゃ足りないくらいいるんだぜ!すごいだろすごいだろ」

についてです。これは「お金持ちの自分」「女の子に愛される自分」しか肯定的に受け取れなくなってしまっているといえます。これは、むしろ自分自身に無条件の肯定ができる力が弱まっている=自己肯定感が低くなってしまっている状態なのかなと感じています。

ある医師が自己愛は骨に似ているといいました。

「骨は折れると太くなるでしょ?自己愛も一緒で傷つくと大きくなるんだよ」

これはなかなか面白いセリフだなと感じました。現実の自分が見えなくなるほどに自己の理想像が大きくなりそのギャップで葛藤するのが誇大な自己愛といえるかもしれません。ある意味はこれは「理想的な自分」という条件の中で迷っているともいえるでしょう。