律さん(@ritu124_ritusan)の書いた学びに関するノートがなかなか面白い。
突き抜けること。自由な学びが認められること。私が描く未来。

もちろん、こんなにすらすらと言葉が出てくることも関心なのだけど、それ以上に運動論にまで言及しているのがとても面白い。

私は、非正規労働者を長くやってきた。「うげーこの働き方はきつい」というものを体験したのも1年とか2年とかそういうレベルではない。ただ、その環境を変えるのはいつも「転職」という手段に頼っていた。環境のよさそうな働き方をぶら下げて、ブラックな労働に追い込むシステムに気づいた時には残念ながら若者というには大分歳をとりすぎていた。実は転職を繰り返すことでは、労働環境は改善しない。外ればかりのくじを引くようなものだ。

大切なのは箱の中のあたりくじを一枚でも増やすことだ。自分の引いた外れくじも実は当たりくじに変えることができる。そんなことを気が付かせてくれたのが組合運動だった。

「理想的な条件を作り出すにはどうすればよいのか」

この答えは一つしかなくて、隣人と手をつなぐしかない。働き方であれば、「おかしいよね」と思う人と手をつなぎ、権力あるひとに「おかしいです」と言うしかない。これは実は一人で言ってもあまり意味がない。どんなに優れた超人的な人でも一人では物事を動かすには小さな力にしかならないのです。

だから、大切なのは手をつなぐ人にも、自分にも「負担をお願いすること」だと思う。ただ、できない負担をお願いするのではなく、どういうことなら一緒にできるのか、ということをよく話し合って出して会って、手をつないでいくことだと思う。その過程ではきっと、衝突や決裂もあると思う。そういういろいろなことを経て運動がさらに大きくなっていくことは社会にとっても必要だし、そういう運動がたくさんできたらどんなに素敵なことかなと思う。

学びの多様性

題名は学びの多様性なのにも関わらず、なぜか運動論について話していたので、きちんと学びについても言及しておきたい。

心理学を学び始めたときに最初に驚いたのが、IQの話だった。私はよく日常会話でIQとかいう言葉を使っていたけれど、実際にそれがどういうものかわかっていなかった。多くの人はIQ100くらいで、90より下の人はあまりいないだろうくらいにしか思っていなかった。

ただ、実際はIQ85以下の人は全体の17%ほど。大体5人に一人がIQ85以下の計算になるのだ。

これを聞いたときにとても違和感があった。私の育った環境では「勉強は努力だ」みたいなことが当たり前のように言われていたのである。あたかも、みんな頑張れば東大に行けるみたいな言い方だ。だから勉強ができないと「それはお前の自己責任」みたいなことを平気で言われる。

「今まで言われてたことって嘘じゃん。勉強できるできないって知的機能である程度きまってるんじゃん」

このように思ったのを今でも覚えている。

こんな学びのシステムの中にいたら、そりゃ傷つく人が出てくるもの当然な話なのだ。勉強がつまらなくなる人もたくさんいると思う。

「学び」は「学問」とは違う。何かを体系的に収める必要もない。表現できなくてもいい。自分の中の世界が広がっていけばそれだけでいいのだ。それを評価しようなんて話が土台無理な話なのではないだろうか。

悲しい時に、悲しいとわかることも学び。
犬がかわいいと感じることも学び。
犬がかわいいから、アニマルセラピーを学んでみたいと「想う」のも学び。
実際に「想い」を実現するのも学び。

さて、ここまで結構今の学校に対して否定的なことを書いたけれども、実は今の学校もそこで終わってない。
学校のシステム自体にダメダメなところはたくさんあるけれども、教員の中にはかなり頑張っている先生がいる。

ある先生と話しているときに「私は、ずっと人見知りで、全然友達ができなかった。でも英語を覚えたらびっくりするほど自己表現ができて楽しかった。英語って実は世界が広がるんだよってそんなことを教えたい」というセリフが出てきた。

これって、私の思う「学び」ととても近いなと思った。

学校のシステムの中にもこのように考えている専門性を持った人がたくさんいる。でもその人たちは、バラバラでほっといたら学校システムの中にどんどん埋もれて行ってしまう。

こういう人を一人一人集めて集団を作ることは本当に求められていることじゃないかな。