心理職に限らず、専門職であれば本を読む機会は少なくないでしょう。
私は、そもそもあまり読書が好きな方ではありませんが、不勉強は専門職の腐敗を招くと思っているので、少なくとも月に1~2冊は読むようにしている。

ただ、読んだ本は自分の前を通り過ぎ去ってしまい、なかなか思い起こすことがなくなってしまう。

だから必要になるとその都度読み直すという作業から解放されることはない。感想を残したところでその作業から解放されることはないと思うだが、読んだときの印象などを書き残しておけば、きっと新しい発見もあるし、みんなに広めることもできる。

そんな思い付きから読んだ本はなるべくブログに残しておこうと思った次第である。

たまたま、佐治先生のカウンセリング入門を読み直したので、記念すべき第一回はこの本にしようと思う。自分の臨床の核を作ったといっても過言ではない本なので、そういう意味でも一冊目がこの本なのは嬉しい。色々な方の名前は出てきますが、何度も名前を書かないといけないので敬称は略させていただいております。

カウンセリング入門 (国土新書 15)

カウンセリング入門 佐治守夫著

大体本を読むときは、一番最後のページから開くことにしている。そこには著者がどういう人なのかとか、初版がいつだとかそういうことが書かれているので得るものも大きい。

今、この本の感想を書こうとしているこの瞬間も一番後ろのページを開いている。

佐治守夫は、1924年生まれ。東大の心理学科を卒業して、現在の日本臨床心理学の礎を作った人の一人だ。河合隼雄が1928年生まれなので、まさに日本臨床心理学の黎明期を生きた人だといっても良いでしょう。河合隼雄は、ユング派の心理療法で有名ですが、佐治守夫はロジャース派の心理療法で有名な方です。

まだ私が心理学を学び始めたころ、臨床において色々な悩みがありました。クライエントは悩みや葛藤があって、カウンセリングに来ているのに、自分は彼らに何もできない。悩みや葛藤を解決することができなくて、臨床家として本当に失格だと思っていた時期が長くありました。彼らの悩みを解決してあげることこそが専門家だと思っていたのですね。今でも、苦しいケースが続くとそのように思うことは少なくありません。そんな時に「もう一度読んでみたいな」と思わせる不思議な魔力を持った本なのです。

聴き方

この本の冒頭で述べられるのは傾聴についてです。不登校の子どもを持つ親を例に、いろいろな話の聴き方を述べている。
その中で、印象に残っているのが、「相手の話を筋道をたてて、論理的に矛盾なく組み立てようとして聴く態度」です。実際私は理系出身ということもあり、このような聴き方を今でもすることがあります。現にこの段落の中では

論理的にあるいは知的に相手を分かろうとして話を聞く態度でいるときには、相手の感情的混乱からくる話の錯綜や筋の逸脱は、じゃまなもの、困った場面としてしか、うけとれなくなる。
引用元: カウンセリング入門 p18

と述べられており、私にもこのような経験は大いにあった。時に、クライエントに対してイライラとした思いを募らせたこともないわけではない。まるで自分が神にでもなった気分で、「ああ、もっとこうすればいいのになぜできないのだ」と葛藤を抱えたこともある。今思えば依存症のクライエントに対して、「なぜやめられないのだ。簡単なことじゃないか」と思うようなものである。本当に臨床を始めたばかりのころは合理性や知的な解決というのは時に相手を傷つける刃になることを経験的には知っていたが、なかなか言葉にならない状態だった。そんなことを立ち止まって考えさせられたという意味でも自分にとっては意味のある本であった。

カウンセリングの要領

ここでは、カウンセリングの技術と人間観について書かれている。

大学生のころだっただろうか、31歳ガン漂流という本を読んだ。闘病記なのだが、「病と闘う」というよりは、がん患者の日常をつづるような文体の本で非常に面白かった。今でも内容を覚えているくらいだから、きっと自分にとって大きな意味を持つ一冊なのだろう。

その中に「患者想いの外科医なんぞ要らない、酒臭くて悪態ばかりつく外科医であっても手技が上手い医者の方がよっぽど良いのだ」みたいなことが書かれていた。カウンセリング論を考えるときに、なぜかいつもこの言葉を思い出してしまう。外科医は物理的技術があり、それが人間観とはなんの関係もない。どんなにズタボロの人間観であっても一定の技術があれば結果がだせるのだ。

ではカウンセリングはどうなのだろう。ズタボロの人間観を持って、ロジャース流の「技術」を実践すればそれなりのカウンセリングができるのだろうか。この答えがこの章には載っていると思う。これは別に来談者中心療法に限った話ではなく、認知行動療法でも、精神分析でもきっと同じテーマがあることだろう。

カウンセリング場面における転機

カウンセリングがどのようなときに、治療的に働き転機としてもたらされるのかということが書かれている。

個人的にはここで来談者中心療法と精神分析の共通項を見たような気がする。

思春期の頃は「性的に魅力的な自分」というものに強い思い入れがあった。持てたかったし、チヤホヤされたかった。思春期であれば当然の心性と言い切ってしまえばその通りなのだが、当時の私にとっては重大なことだったのだ。でも、実際は少し太っていたし、そこまで容姿が良いわけでもない。でも、自分は「性的に魅力的だ」と感じていたのだ。だから、いろいろ関係性の中で困難も多かったし苦しんだことも多かった。今風にいうならば、そういう「キャラ」を作っていたとでもいえばよいだろうか。だから、誰にもこの葛藤は話すことはないし、自分の中からも次第になかったことになっていく。

この「なかったことにされたもの」や、「扱えないもの」を自由に扱えるようにするところにカウンセリングの転機は訪れるのではないだろうか。

事例を通して

この本には2回分の面接逐語録がまるまる載っている。中学生の事例なのだが、時代背景は変わっても人間の葛藤というのはあまり変わらないのかもしれないということを思ってしまう位に、今このケースが来ても何の違和感もない。
50年も前のケースだとは到底思えないほど、色鮮やかで、生き生きとしたケースである。

前半は色々と小難しいことが書いてあるが、最後の逐語を読むだけでもかなり面白い本だ。良かったら一度読んでみてください。

カウンセリング入門 (国土新書 15)

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